昭和56年2月14日 朝の御理解。 中村良一
御理解 第98節
「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
落ち着いて静かに願えとある。これは、御神前に出らせて貰う、御祈念をさせていただく、まぁ、姿勢は、そうなからなければならないと思うですね。落ち着いて静かに願えれるおかげを頂きたい。そして、何を願うかと、えー、まぁ、今日の御理解。心は信心の定規と仰せられるのですから、合楽に御神縁を頂いて、少し、信心の稽古をした人ならば、えー、一切神愛という事を、繰り返し頂くのですから、それを言い。また、それを、なるほど、神愛だなと。御神願の現われが、神様の願いの現われが、例えば、肉眼を持ってすると、困ったこと、難儀なことのように見えるけれども、よくよく、心の目を持ってすると、それは、神願が成就することのために、神様の願いが成就することのために、いうなら、神の願いが地上になることのために、神様の御演出であり、お計らいであるということが分かる。あれもおかげであった、これもおかげであったと、段々分かるようになる。えー、そこまではね、段々、合楽の方達は、分かっておると思うですね。一切神愛と。ところが、いうなら、あの、静かに願えと仰せられる、そういう信心が出来ていないんですね。ですから、分かっちゃおるけれども、出けんというのが、まぁ、合楽の皆さんの場合じゃないだろうかとこう思うんですよね。分かってるんだ。これは神愛だという事が。私を育てて下さろうとしておるんだ。神願がこの事を以って、成就していくことのための、神様の御演出だと言ったようなことは、あらゆる角度から、お話を頂いておりますから分かっている。ね。そこで、ほんなら、自分の信心の程度というものに、何時もこう、ね。心は信心の定規を押し当てて見なければならない。そして、分かってはおるけれども、実際は、このくらいしか分かっていないという事を、確かめていって、それが、一分一厘づつでも、進んでいっておる自分に、有難い、いわゆる、これが分かったら、いよいよ有難い、楽しい、それこそ、愉快なことにもなっていこうというわけなんです。ね。もう本当にね、合楽で少しあの、例えば、今、学院生が、あの、他所の教会に、福岡、あーじゃない、大阪とか、四国辺りまでも行っております。えー、の、手紙を見ますと、もう、合楽の信心の、すっきり、マスターが出来てるんです。もう、言うこと、書くこと、全てがもう、これがこれだけ、本当に分かっておったら、もう、本当に、何時、布教に出ても良い、人が助かるという感じなんです。ま、ようも、これまで、まぁ、分かっとった事じゃあると。昨日読んでもらいました、恵介君の手紙なんか、そうでしょうが。素晴らしいです。ね。表現も素晴らしいが、受け止め方も素晴らしいです。ね。ところが、その、実際に、うっかりしておる時、いうならば、静かに願えといったような信心が出来ていない証拠に、いざという時に、心が暗くなったり、ね。腹が立ったり、分かっちゃおるけれども、そうなんです。ね。そこに、いうならば、えー、昨日の御理解でしたかね。安心の一本の傘が得られない。一本の傘、安心のおかげを頂く事のために、分かっておる事を、それに向って精進する。私は、合楽の皆さんの、一番、合楽にご縁を頂いたという事が、素晴らしいという事はね、もう、絶対のところが、はっきり、明示されておる事。どげな信心させていただいたなら、おかげ頂くじゃろかといったようなものじゃない事。一切が神愛という事を、十分、分からせてもらって、ね。御神願ご成就のことのための、それである、これであるという事が、分からせていただいて、ね。ところが、実際のその、受け心というものは、やはり、叩かれれば、痛い。ね。困ったことであれば、それが、やっぱり困ったことにしてしまう。そこに、いうなら、元気な心というか、まぁ、おかげと言えれる信心。ね。また、おかげと思えれる信心。その辺のところがね、あの、自分の信心の状態が分かる。いわゆる、心に信心の定規を押し当ててみると、自分が頂いておるところは、この辺であるという所が分かる。だから、その事を、一分一厘づつでも高めていくことに精進すれば良いのですから、間違いなく、絶対のところを焦点にして進んでいくのですから、ね。こんなに間違いのない。また、実際それを、本気で稽古するという気になりゃ、楽しゅうもなろう、愉快にもなろうというものです。ね。どういう信心したら良いか分からない人が、沢山あるんですよ。ただ、参ることだけ参る。拝むことだけは拝む。はぁ、水かぶったり、断食したりと。それでもおかげいただかにゃいけんというようにですね。そういう、いうならば、手探り的なものがいらない、合楽の場合は。ね。確かなところに、きちっと焦点がおいてあって、その事がです。ほんんら、皆さんが、納得できてる、分かってる。ね。分かってるから、それを、分かってる通りに受け止めれる心の状態を鍛えていくだけ。そのためには、いうならば、何時も、心の中が平生でなからなければいけないという事。いうならば、信心の構えが、何時も出来ておらなければならないという事。平生心である。ね。静かに、神様の前に御祈念をするときのような、願い、思いがあると、何時、どういう事が起こってきても、それを、どっこいというて気張らんでも良い。すんなりと、おかげとして受けていくことが出来る。有難うございますと、お礼が言えれる、ね。そういうところに、一つ、信心の定規を押し当て、押し当て、より本当な事への精進を、いわゆる、稽古をさせていただくことに、楽しみの分かるような信心を頂きたい。合楽で、一番、有難いという事は、こういう信心を頂けば、必ずお徳が受けられる。おかげが受けられるという焦点を、はっきりとそこに明示してある。示してある。そしてそれも、ね。本当に、これが神愛じゃろうが。ね。神様の願いが、あんたの上に、成就して行きよる姿だよという事を、あらゆる角度から聞いて、まぁ、振り返ってみて、あん時、困ったこと、難儀なこと、そのおかげで、今日の信心があるということが分かってくるようになる。ね。だから、いつでも、どんな場合であっても、信心の定規を、自分の心に押し当てた時に、自分の信心の程度が分かるのですから、本気で稽古をさせていただかなければね、ね。信心しよって、どうしてこげなこつが起こるだろうかといったようなものは、全然、その、神様の願いと、私共の願いが、食い違ったような思い方が、心の中に起きてくるような事では、信心の稽古になりません。ね。信心の定規を、何時も、自分の心に押し当てて、自分の本当に、自分で自分の心が拝めれるような。本当に信心、有難いものじゃあるなという事が、どういう時であっても、自分の心が動かない。どういう時であっても、神愛として受けられる、その心がね。拝めれる心じゃないでしょうかね。どうぞ。